シャローム!
手放すことは手に入れることよりも難しいことです。しかし、心が動かされ、主のために手放したとき、なぜ今までこれを持ち続けていたのだろうかと感じることがしばしばあります。
私たちははだかでうまれ、はだかでかしこに帰ります。この地上で得たものは自分のものでは無く、すべて主のものです。しかし、なぜか私たちはそれを自分のものと勘違いし、主張してしまいます。
私たちは何かを献げるときに失うのでしょうか?私たちの内には天も地もすべてを所有されておられるお方が住んでくださっているのでは無いでしょうか?それであれば、私たちはすべてを持っている状態と言えるのでは無いでしょうか?
「主に献げます」と言いながら、そのものを握りしめたまま主に差し出していないでしょうか?主が語られ、それに従って献げるなら、主はその者を豊かに祝福してくださいます。
今日も祝福のみことばを受け取って生きましょう。
今日の通読箇所:申命記13章~15章
■アウトライン
主のために手放す
●そそのかし、惑わす者:13章
・偽預言者:1-5節
・近親者:6-11節
・町の住民の迷い:12-18節
●主の聖なる民:14章
・死人への儀式:1-2節
・食物規定に関して:3-21節
・十分の一に関して:22-29節
●財産を手放す:15章
・夫妻の免除:1-11節
・奴隷解放:12-18節
・初子のいけにえ:19-23節
(1)通読のために心を整える
心を静めて、知恵と啓示の御霊をお迎えしましょう。
(2)通読
今日の通読箇所をまず音読しましょう。
(3)自分なりの受け取ったことをノートに書き記す
コラムを読む前に、自分なりに受け取ったことをノートにまとめてみましょう。
(4)コラムを読む
コラムを読み、質問の答えを考えてみましょう。
■コラム
【13章】そそのかし、惑わす者
「たねもしかけもありません」という決まり文句で行われるマジックショー。最近は本当に驚く大規模なものもありますね。本当にたねもしかけもないのでしょうか?
多くのマジックはたねもしかけもあり、それをうまく見せないようにして私たちを楽しませてくれています。
マジックショーならまだいいですが、私たちはしるしとふしぎ、また奇跡を起こす者のわざを見て信じてしまうことがあります。
どんなに大きな世界的な器でも、普段の生活を共にするときにがっかりするような場面を見たことがあります。
1-5節は偽預言者について書かれています。本当にやっかいです。いっそ悪役に徹して欲しいのですが、いかにも良いように装い、時には奇跡を起こしてまで私たちを惑わそうとします。
覚えていますか?エジプトの呪法師たちもモーセが行った事をまねて行いました。
神様はそのような者を私たちの目の前に送り、私たちを試します。その目的は私たちの主への愛が本物かどうかを試すためです。
一体どうすればいいのでしょうか?答えは4節です。「またか!」と思われるかもしれませんが、またです。
また、新約聖書でも偽預言者に対する箇所が沢山出てきます。そのひとつ、イエス様が警告された箇所を読んでみましょう。マタイ7:15-20です。ここから何が学べますか?
6節から、これは本当に難しい問題ですね。多くの未信者の家族と一緒に暮らしておられる方は多かれ少なかれ、この事を経験されているのではないでしょうか。
家族や周りの人には最大限の愛を示していく必要がありますが、譲ってはいけない境界線があります。イエス様もマタイ10:7で同じような事を言われています。
私たちはこのような時にどう答えたらいいか、どのように振る舞ったらいいかをあらかじめ考えておきましょう。
12節からは、町全体規模でのまどわしが書かれています。よこしまな者がそそのかして町の住民を惑わしています。
特に日本は、この集団心理がよく働くのでは無いでしょうか?昔にはやった言葉で「赤信号、みんなで渡れば、恐くない」というものがありました。(赤信号を渡るのは道路交通法違反です!!)
上記は積極的な集団心理ですが、消極的な集団心理もあります。以前、テレビで待合室に煙を送り込んで何人が非難するかという実験をしていました。明らかにモクモクの煙が充満していたのですが、誰ひとり逃げ出しませんでした。
これは「正常性バイアス」といって、「あの人が逃げていないから自分も大丈夫だろう」と思ってしまうことです。
みんなが言うから正しいというわけではありません。情報を鵜呑みにしてはいけません。吟味が必要です。たとえ、メッセージであってもです。
本物と偽物を見分ける秘訣は本物に触れ続ける事です。みなさんが毎日顔を合わしている家族が他の人と入れ替わっていたら、すぐに気づくでしょう。
同じように、私たちが毎日みことばに触れ続けていたなら、違う者が入ってきたときに違和感を覚えるはずです。
主との関係が大切です。
【14章】主の聖なる民
1節には、はっきりとイスラエルの民は神の子だと書かれています。親であれば、子どもが傷つくのを喜ぶ親はいないでしょう。同じように、イスラエルの民が死人のために自分を傷つけているのをご覧になって、神様は悲しまれます。
当時の中東地域では、葬儀の時に悲しみを表現する行為として自分を傷つける風習があったようです。もちろん、無くなった方との分かれはつらいことですが、無くなった方は礼拝の対象ではありません。
主はイスラエルの民を選んで主ご自身の宝とされました。私たちも同じ祝福にあずかる者とされていることを感謝します。それゆえ、主の悲しまれることを行わないようにしたいものです。
3節からは食べ物に関して書かれています。レビ記11章でも書かれていました。ここでもかんじますが、とても細かく規定されています。
考えてみたら、私たちは食べたもので体が作られています。神様はイスラエルの民にとって最も良いものをセレクトし、彼らに与えられました。
この食物規定を私たちは守るべきでしょうか?いつも言っていますが、私たちは十字架を通してこれらの事を見る必要があります。十字架で成就したこと、なお続くことを見極めていく必要があります。
使徒の働き10:9-16を見てみましょう。
21節はとても興味深いと思いませんか?子どもの頃、よく「○○くんのところはあれをしてるのに、どうしてうちはだめなの?」と親に聞くと「○○くんは○○君、うちはうち」と言われたことは無いでしょうか?どこか理不尽に感じてしまいますが、神様はイスラエルの民を愛するが故に食物規定を設けられました。
他から取り分けられて区別されることが聖別です。
22節からは十分の一に関して書かれています。畑から得る十分の一を必ず毎年献げるとあります。
私たちは毎月十一献金を献げているかもしれません。つまり、残りの十分の九で暮らすと言うことです。沢山の証を聞いたことがありますが、十分の一を献げずに生活するなら困窮し、苦しい中でもきっちり十分の一を献げた人には主からの特別な計らいがあるということです。しかし、ここで取り違えてはいけないのは、祝福して欲しいから献げると言うことではないということです。考えてみてください。この地のすべてのものは主のものです。それを私たちが使わせてもらっているだけです。なのにどうして私たちは自分のものにしようとしてしまうのでしょうか。十分の一を主にお返しする祝福を体験しましょう。
28-29節に祝福の約束が書かれています。
また、この箇所で興味深いのは、ささげ物を遠くから持ってくるときの方法が書かれていることです。これはこれまでに無かったことです。なぜなら、イスラエルの民の宿営は幕屋の周りにあったからです。
しかし、乳と蜜の流れる地に入ったなら、神殿までの距離がありますので、長い旅路の途中でいけにえが傷ついたり死んでしまったりする可能性があります。
それを避けるために、遠方からささげ物をするときにはそれを金に換え、神殿の近くでいけにえに交換するという方法を取りました。
この事を理解するなら、イエス様が宮清めの時に神殿で両替をしたり鳩を売っている人を追い出した意味がわかるでしょう。彼らはささげ物のために商売をしてたのですが、それを法外な値段で売っていました。神へのささげ物を自分の私腹を肥やすために用いていました。イエス様の憤りも理解できます。
【15章】財産を手放す
ここでは負債の免除が書かれています。何年ごとと書かれていますか?これはレビ記で出てきた安息年と同じ年数です。誰からは取り立てて良く、誰からは取り立てては生けないのでしょうか?
この事を実践するならどうなると4節に書かれていますか?これが御国の経済学です。地の経済を熱心に学び、さらに天の経済学を学び、実践するなら主はこのようにしてくださると信じます。
どうして同胞から取り立ててはいけないのでしょうか?ローマ13:8にはどう書かれているでしょうか。
貸し借りをするときに人間関係にどう影響するでしょうか?貸した方が上位に立ち、借りた方が会になってしまいます。兄弟に主従関係ができてしまいます。
また、新約聖書では、負債は罪と関わりがあることを示しています。罪の赦しを借金の帳消しにたとえています。もし、自分の家計を見て、負債があるならまず負債を返すことに注力しましょう。
7節から、与える祝福が書かれています。どうしてこのようなことができるのでしょうか?天のお父さんが気前がいいからです。
私たちは人に何かをプレゼントしたとき、そのための犠牲以上の喜びを感じることができます。相手の喜んでいる顔を見ることがとても幸せに感じることがあります。
しかし、そのためには順番があります。まず神様との関係です。そして、自分が霊的にも物質的にもある程度の豊かさを築く必要があります。なぜなら、自分の身を削ってまで捧げ続けるなら、私たちは疲れ果ててしまうからです。より多くの人を祝福するために、主に豊かさを求めましょう。
12節からは奴隷の解放が書かれています。出エジプト記21章の繰り返しです。当時のイスラエルの主人と奴隷の関係は家族のような関係もありました。あまりにも良い主人なので、そこを離れたくないという奴隷がいました。
私たちの主人は最も良いお方です。このお方から決して離れたくありません。ですから、私たちは主の家の戸に耳をキリで刺し通し、主にだけ仕える生き方をしていきたいものです。
また、この奴隷が自由にされるとき、どうなると書かれているでしょうか?この時代、奴隷が自由になることだけでも考えられないことでした。その上、18節のような事が起こるのはありえないことです。
受けるべきでない者が上から与えられる一方的な好意が恵みです。私たちも罪の奴隷から解放されただけで無く、考えられないほどの恵みを与えられていることを感謝します。
19節からは、家畜の初子を主に献げることが書かれています。
以上、収穫、貸しているお金、奴隷、家畜など、財産と言えるものを自分のものとすることなく主に長下げするのです。手放すのです。
宝を地上で蓄えすぎると、それを餌として悪しき者が近寄ってきます。自分で持つのでは無く、神様におゆだねするなら、宝は虫に食われることも無く、朽ちることも無く、強盗が来て穴を開けて盗んでいくこともしません。手放す喜び、与える喜びを体験していきましょう。
(5)ノートに記す
文中の質問、また以下の質問の回答をノートに記しましょう。
・【観察】今日の通読箇所の内容を簡潔にまとめましょう。
・【観察】神様はどのようなお方ですか?神様のご性質や神様がどのように働かれるかを書きましょう。
・【観察】ここからどんな真理や教訓を学べますか?
・【適用】自分の生活にどのようにあてはめることができますか?
・【感謝】受けた恵みや感謝はありますか?
・【祈り】実行できるように祈りましょう。
(6)祈り
実行できるように、主に切に求めて祈りましょう。
(7)分かち合う
ページの一番下にある「コメントを残す」というところに、受けた恵みを分かち合いましょう。
14:7 ただし、反芻するもの、あるいは、ひづめが分かれているものの中でも、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
14:8 豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。
14:9 水の中にいるすべてのもののうちで次のものを、あなたがたは食べてもよい。ひれと鱗のあるものはすべて食べてもよい。
14:10 ひれや鱗のないものはすべて、食べてはならない。それは、あなたがたには汚れたものである。
14:11 きよい鳥はすべて食べてもよい。
14:12 しかし、食べてならないのは次のものである。禿鷲、禿鷹、黒禿鷹、
14:13 黒鳶、隼、鳶の類、
14:14 烏の類すべて、
14:15 だちょう、夜鷹、かもめ、鷹の類、
14:16 ふくろう、みみずく、白ふくろう、
14:17 森ふくろう、野雁、鵜、
14:18 こうのとり、鷺の類、やつがしら、こうもり。
14:19 羽があって群がるものはすべて、あなたがたには汚れたものである。それらを食べてはならない。
14:20 羽のあるきよいものはすべて食べてもよい。
ずっと以前ですが、日曜学校の教師をしていた時、“きよくて、口にしていいものについて”、
自分自身にもこだわりがあって、いつもお子さんたちに話す時、ついつい力を込めていました。何度も同じことを繰り返し伝えたので、
「また言ってる、はいはい、知ってる」と
お子さんたちから声が聞こえたほどです・・(*_*;
ひずめの分かれているという表現は、歩きにくい場所も上手に歩けることから、み言葉を大切に毎日読むから、み心を悟る力が付き人生の歩みが堅固にされていくこだ思います。
反芻するものが聖いとは、一度味わったみ言葉を、何度も味わい、良く反芻することで栄養も体にしみわたっている状態、み言葉と共に生活している、み言葉の人となっていく状態のことなのだろうと思います。
魚のひれは、方向転換ができる、これが主の御心でないと分かればすぐに悔い改め、方向転換できることだと思います。
また、創造主からひれを付けていただくことで、人生のかじ取りを主のみ旨に沿って主と共に身軽にできる事なのかなと思います。
魚のうろこは、絶えず神の聖なる武具で武装して主のたおやかな乙女でありつつも、悪魔の策略に対しては、立ち向かっていくための軍服を着た雄々しく凛々しい武装したキリストの花嫁を表しているのだと思います。
神の聖なる武具とは エペソ人への手紙6章13節から18節
13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
群がるものという意味では、群がって、赤信号みんなで渡れば怖くないよろしく、自分自身で祈り、聖書を確かめて神様を求めてお会いしようとせずに、群集心理に惑わされ、周りに合わせて妥協していることだと解釈していたのですが、
今日、口語訳を見て、はっとしました。
また新しく、目が開かれた思いです。
申命記(口語訳)
14:19 またすべて羽があって這うものは汚れたものである。それを食べてはならない。
申命記14章の19節
2017版で
羽があっても群がるものが
口語訳では這うものとありますね
翼があっても這うものは汚れたものだというは、半分地に着いた者のことで、主が与えてくださった祈りの翼で大空に向かって昇り、天の恵みを受けながらも、半分は世のことを思い、神様と二股かけているということなのだろうと思います。
私にもこの部分があるのではと思わされます。比較したり、自分に備わってないことで他者が持っていることをうらやましがったり、自分の能力のなさに落胆すること、愚直に神に従わなくても祝されている人を見て妬む気持ちも、神が大いなるご計画の中で用意してくださっている天の祝福を目指すことをせず、目先の世のことを思っている心患うことなのかなと思います。吟味していきたいと思わされました。
こういう思いになるとき詩編73篇を読むと、皆おなじところを通ってこられたのだなと、雲のように取り巻いている信仰の証人たちに慰められエールを送られます。
詩編73篇21節から28節
21 私の心が苦みに満ち私の内なる思いが突き刺されたとき
22 私は愚かで考えもなくあなたの前で獣のようでした。
23 しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりとつかんでくださいました。
24 あなたは私を諭して導き後には栄光のうちに受け入れてくださいます。
25 あなたのほかに天では私にだれがいるでしょう。地では私はだれをも望みません。
26 この身も心も尽き果てるでしょう。しかし神は私の心の岩とこしえに私が受ける割り当ての地。
27 見よあなたから遠く離れている者は滅びます。あなたに背き不実を行う者をあなたはみな滅ぼされます。
28 しかし私にとって神のみそばにいることが幸せです。私は【神】で主を私の避け所としあなたのすべてのみわざを語り告げます